2018-04-11

no title

時々


自分の気持ちがわからなくなったり
自分を信じていたのに
本当にそうなの?と
疑いたくなったりしてしまうような


そんな穴にストンと落ちてしまう時があります。


誰にでもあることかも知れませんが
私自身
それは今始まったことじゃなく
多分
昔からそういうところが
ある気がします。


それでいつも思い返すのですが
そんな時ってだいたい
何かを誰かに委ねすぎている時だなあと
我にかえることが出来ます。
自分でよしとしてやってきたことなのに
基準が「誰か」になってしまってるなと。


ただただ
委ねたいな
甘えたいな
という時もありますけどね。


自分の思考や感情や決断を
なにかをもって
そうだなあと思うのは
やっぱり
誰かから言われたとか
誰かが言っていたから  ではなくて
自分から生まれるものが
起点でなくちゃいけないなあと
思い直すわけです。
それでも
何かがきっかけで
そう   そうなのよーと
思わせてもらえたりすると
まるで導いてもらえたかような
偶然ではないような気がしたりします。


最近
ブイヨンちゃんのことから
よく糸井さんの日々のエッセイを
読みに行くことが増えました。
今日このタイミングで書いてあったことを
保存したかったから
ここに貼り付けさせてくださいね。


・好きなことがあるだけで、幸いである。
それをしているときのあなたが、
いちばんあなたらしい。
好きなものを食べられるのは、幸いである。
それを食べているあなたは、だれよりもうれしい。
好きな人がいる人は、幸いである。
好きな人を思うだけで、
生まれてよかったと感じられる。
好きな場所があるのなら、それも幸いである。
あなた自身も、気持ちよくその場所に溶けている。
などと、ぼくは、ありふれたことを思うにまかせて
書いているのだけれど、
じぶんで書きながら、いいなぁそれ、と思っている。
前々からそう思っていたことだからだろう、
それ以上にもならないが、それなりに好きなのだ。
そのままぼんやりと、イメージを浮かべているうちに、
<好きな不幸がある人は、幸いである。>
なんてことも考えつくようになる。
ただの思いつくままのでたらめなのだけれど、
「好きな不幸」か、ことばの遊びにしか過ぎないのだが、
これはこれで、こういうことだって言える気がする。
・「ほぼ日の学校」で、シェイクスピアを浴びた夜は、
考えることがちょっと多くなる。いつものようにではなく、
もうちょっと余計に、
頭のなかからこぼれるくらいに、なにか思いたくなる。
「そうかもしれない」ということを、考えたくなる。
ふだんの暮らしのなかでは、
懸命になって「わかりやすさ」を
追いかけてしまうのだけれど、
人のこころだか頭だかというものは、
だれかにわかりやすく伝えることなんてどうでもいい、
気持ちよく「感じ」やら「思い」やら「考え」やらと
遊んでみたいということがあるのではなかろうか。
ということで、いつも以上に勝手に、
ただなんとなく書くということをしてみました。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
数日、たのしくブイヨンの写真展用の写真を選んでいます。

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